LOGIN反抗には、たいてい請求書がつく。
翌朝、会社に入った瞬間、そのことがよくわかった。 昨日の夕食の席での出来事は、都合よく形を変えて社内に届いているらしい。 感情的な奥様。 離婚を受け入れられずに拗れている女。 口うるさい女役員の悪口は、みんな大好きだ。仕事の連絡より、よほど早く回る。 午前十時、海外提携案件の定例が始まった。 先方へ出す収益計画は、今日中に確定させなければならない。ここで数字を誤れば、取引は飛ぶ。 会議室に入った瞬間、嫌な予感がした。 配布済みの資料に、前夜の修正版ではなく一つ前の版が混ざっている。しかも特損の注記だけが抜けていた。 「この資料、誰が差し替えました」 営業の課長が気まずそうに視線を逸らす。 「一条さんが、先方に受けのいい形に直すと」 なるほど。数字を磨くことと、数字を消すことの区別がつかない人間が、たまにいる。 澄麗は会議卓の向こうで、ほんの少し眉を下げた。 「ごめんなさい。わたくし、見せ方の問題かと……。米国のビジネススクールでは、数字はストーリーで伝えるものだと教わりましたので」 はいはい、私はたかが国内の税理士ですから。 だけど監査法人も税務署も、「米国では」で押し切れるほど甘くない。 見せ方。きれいな言葉だ。粉飾も誤魔化しも、少し上品に言えばだいたい無害に聞こえる。 「問題です。このまま出せば、あとで説明が破綻します。今ならまだ直せるので、直します」 澄麗は責められた顔をしなかった。ただ、少し傷ついた顔をした。厄介な人は、だいたいその顔が上手い。 「ですが、もう先方との接続時間が」 「だからです」 私は修正箇所を洗い出し、差分表と補足説明を組んだ。 「外向けには私から連絡します。社内承認は後で通してください。今は、修正しないほうがよほど危険です」 会議室を出て、取引先側の担当へ連絡を入れる。数字の基準を揃え直すので三十分待ってほしいと伝えた。 電話の向こうが、少し黙った。 『高瀬さんがそう言うなら待ちます。あなたの仕事ぶりは信用しているので』 それだけで、少しほっとした。 昼過ぎには修正版をまとめ、オンライン会議もどうにか乗り切った。取引自体は繋いだ。 ――なのに、午後には私が加害者になっていた。 *** 社長室に呼ばれるなり、朔弥さんは机に置かれた資料を見下ろして言った。 「一条を泣かせたそうだな」 「……は?」 「会議で過剰に責め立てたと聞いた」 私は取引を守った。数字の穴を埋めた。先方との接続を切らなかった。けれど彼は今、その一つも見ていない。 「責めてはいません。誤りを止めました」 「言い方の問題だ」 来た、と思った。 論点が、資料の中身から私の態度にすり替わった。中身で反論できない時、人はたいてい、言い方を責める。 「誤りの内容は確認なさらないんですか」 「今問題にしているのはそこじゃない」 「私はそこを問題にしています」 朔弥さんの目が、すっと冷えた。 「真尋、もうやめろ」 この人は、私の気持ちなんて考えもしない。ただ、私が口を開くことだけを止めに来る。 「何をですか。正しいことを言うのを?」 「一条は悪意でやったわけじゃない。昨日あんな態度を取ったのに、それでも彼女は母さんの前でお前のことをかばってたんだ」 パキン。 心の中で、何かがきれいに折れた。 悪意でなければいいらしい。 注記を消したことだけなら、まだ無知や見栄で片づけられたのかもしれない。 けれど、それだけじゃない。 会議の席で、私の仕事を「子どものいない女の代わりの価値」みたいに笑った。 歓迎会では、わざとらしく私の服を汚して、心配する顔で人前に晒した。 御門家の食卓では、もう次の席に座っているみたいな顔で、私にきれいに身を引けと言った。 それを悪意と呼ばずに、何と呼ぶのだろう。 それでも、この人には見えないのだ。 「わかりました。もう結構です」 社長室を出たあと、自席に戻るまでの記憶が少し薄い。机の引き出しには、前に渡されていた離婚届がきれいに揃っていた。 白い紙だった。軽いのに、ずいぶんすっぱり切れる。 署名欄に、ゆっくり自分の名前を書く。 御門真尋。 今の私の名前のはずなのに、ひどく見慣れなかった。他人のものみたいだった。 いや、これを書いたら本当に他人になるのだ。 私は、何を期待しているのだろう。 私たちの結婚は、ただ会社にとって都合がいいからだった。再建を乗り越える中で、愛されているのかもしれないと思ったこともあったけれど、あれは勘違いだった。 ――私は、愛されていない。 なのに、こんなにつらい思いをするべきではない。 もう十分に思い知ったはずなのに、それでもまだ、どこかで愛される可能性を勘定に入れている自分がいる。 恋愛脳みたいで、嫌になる。 それでも半日近く、離婚届は引き出しの中から出せなかった。何度も封筒に入れて、またしまって、仕事のふりをして数字を見直した。数字は嘘をつかないのに、今日は桁の並びすら頭に入らない。 もういい、と最後に思った。 これ以上みじめになる前に、自分の手で終わらせるしかない。 封筒を持って秘書室へ向かう。 「高瀬さん……」 「これを、社長にお渡しください」 秘書は受け取ろうとして、すぐに躊躇した。 「社長は、今……ご不在で」 「でしたら、机の上に置いておきます」 「え、あの……一条さんが、社長室でお待ちでして……」 そこで、ようやくわかった。不在と言ったのは嘘だったのだ。 「それなら私は入りません。後で彼に渡しておいてください」 その時、内線が鳴った。 「……はい、秘書室です。え……昨日の案件の件で? 社長に至急?」 秘書は慌てて社長室の扉へ向かった。封筒を机に置いたまま。 「社長、失礼します。至急、お電話で――」 ノックのあと、扉が開く。 一条と朔弥さん。 一条は社長の椅子に座っていた。目元は少し赤い。 朔弥さんはその横に立ち、泣き崩れそうな彼女の肩を包むように、やさしく腕を回していた。 一瞬、何を見ているのか分からなかった。 足元から、感覚が消えた。 ああ。 半日も迷っていたのは、私だけだった。 何も知らないふりで、きれいに終わらせようとしていたのも。 私だけだったのか。 まあ、もう関係のないことだ。 そう背を向けた瞬間――視線の先で、何かが不穏に動いた。「聞こえましたか」 結婚式からしばらく後の午後、健診で訪れたいつものクリニックで私が尋ねると、朔弥さんは超音波写真から顔を上げた。 「女の子」 「はい。私たちの娘です」 彼はまた写真を見た。 口元がわずかに緩んでいる。こんな顔をする人だったのだと、今さら知った。 「君に似るだろうか」 「あなたに似るかもしれませんよ」 「君に似たら、心配だ」 「何がですか」 朔弥さんは、写真を傷つけないようケースへ入れた。 「俺みたいなのが、放っておかない」 「あなたみたいな人が来たら、私がよく見ておきます」 「君は、俺を選んだだろう」 「では、お父さんにも見てもらいましょう」 彼は反論しかけ、やめた。 女医が笑いを堪えているので、私は先に席を立った。 健診室を出ても、朔弥さんは写真の入ったケースを手放さなかった。 「そんなに見ても、急には大きくなりませんよ」 「わかっている」 そう答えながら、またケースを開く。 「あの日、無事だと聞いた時も、すぐには信じられなかった」 階段から落ちかけ、病院へ運ばれた日のことだ。 私も同じだった。画面に小さな心臓の動きを見つけるまで、自分の身体を信じられなかった。 「今は、ここまで大きくなりました」 彼の手を取り、お腹へ当てた。 「あなたが守ってくれた子です」 「君が守ったんだ」 朔弥さんは私のお腹を撫で、私の額へ唇をつけた。 「二人とも、無事に家へ連れて帰る」 この人はきっと、産声を聞くまで安心しない。 それでも、一人で不安を抱えていた頃とは違う。私も、この人の手を離すつもりはなかった。 帰り道、二人で名前を考えた。 「結菜、というのはどうですか」 「ゆいな?」 「結ぶという字に、菜の花の菜。この子が、自分で選んだ人たちと縁を結んでいけるように」 朔弥さんは、すぐには答えなかった。 私のお腹へ手を添え、呼んでみる。 「結菜」 内側から、小さく蹴られた。 「返事をしました」 「決まりだな」 「一度呼んだだけですよ」 「本人が決めた」 真顔で言い切るので、笑ってしまった。 「いい名前だ。俺たちが何度離れかけても、この子がつないでくれた」 その言葉を聞いた途端、目の前が滲んだ。 まだ名前も知らなかった頃から、この子は
「母さんに、そっくりだ」 結婚式当日、御門ホテルの支度室で、父は入口に立ったまま私を見ていた。 「前の式の時も、そう言ったよ」 「あの時は、花嫁衣装が似ていると思った」 父の目が、ドレス越しに丸くなったお腹へ向いた。 「今日は、お前がお腹にいた頃の母さんに似てる。彼女が、こうしてお腹へ手を当てて笑っている写真がある」 言われて初めて、自分がお腹へ手を添えていたことに気づいた。 「そんな写真、あったんだ」 「ある。お前にも見せたと思っていた」 「見てないよ」 「そうだったか」 「帰ったら、ちゃんと見せてね」 「ああ」 父は照れたように頭をかいた。 母も私がお腹にいた時、まだ見ぬ我が子に早く会いたいと思っていたのだろう。今の私と同じように。 母がここにいないことは寂しい。それでも、母も同じ気持ちで私を待っていたと知れたことが、嬉しかった。 父は目元を押さえた。 「母さんにも、今日のお前を見せたかったな」 「私も」 父は磨いた靴へ目を落とし、もう一度、私を見た。 「今度も、俺が隣を歩いていいのか」 「そのために来てもらったんだよ」 私は父へ手を差し出した。 父は、ようやく私の手を取った。 「転ばないようにな」 「お父さんが?」 「お前がだ」 顔を見合わせ、二人で笑った。 父とこの道を歩くのは、二度目だ。 けれど、一度目と同じではない。今度は私が選んだ人のもとへ、お腹の子と一緒に歩いていく。 父にもう一度隣を歩いてもらえることが、嬉しかった。 係員に呼ばれ、二人で扉の前へ向かう。 音楽が聞こえた。 扉が開くと、道の先に朔弥さんがいる。 仕事の資料も、会社の人も見ていなかった。 私だけを見て、待っている。 父の歩幅は、私に合わせてゆっくりだった。 祭壇の前まで来ると、朔弥さんが頭を下げた。 父は、私の手をすぐには渡さなかった。 「前にも言ったが」 「はい」 「大事にしてくれ」 「約束します」 朔弥さんが、父の目を見てはっきりと言った。 今度は、父も手を離した。 朔弥さんの手が、私の手を包む。 「前より、きれいだ」 「いま言うんですか」 「一度目の式では、言えなかった」 朔弥さんの親指が、二本の指輪をなぞった。 「俺の子を抱い
「出産の前後は、出社を減らす」 婚約披露パーティーを終えた控室で、朔弥さんは会社の資料を閉じた。 「最初の数週間は、家にいる時間を優先する。決裁の代行も、緊急時の連絡先も決めてある」 「いつから、そんな準備を?」 「君が、休む間の仕事を引き継いでいた時だ」 私の予定を変えることばかり考えていた人が、自分の仕事を人へ渡そうとしている。 「社長がお休みして、大丈夫なんですか」 「大丈夫にするのが、引き継ぎだろう」 「私には黙っていたのに」 「反対するかと思った」 「しますよ。無理な計画なら」 朔弥さんは、一枚目から資料を見せた。 誰が何を決め、どの時だけ連絡を受けるのか。私が読んでも、彼が本気でこの子を一緒に育てようとしているのがわかった。 胸がじんわりと熱くなる。 「一緒に覚えましょう」 「何を?」 「この子のお世話です。私も初めてですから」 彼は私のお腹へ手を添えた。 「ああ。一緒にやる」 「不安じゃないんですか」 「不安だ」 迷わず返され、私は彼を見た。 「……姉さんの時のことを、今でも思い出す。君とこの子に何かあったらと思うと、怖い」 お腹に触れる手へ、もう片方の手も重なった。 「でも、今度は黙って一人で決めない。怖い時は怖いと言う。わからないことは、君と一緒に覚える」 涙が一粒、頬を伝った。 「どうして泣く」 「嬉しいからです」 朔弥さんの指が、涙を拭った。 その時、お腹の中から小さく蹴られる。 「今、動いた」 「聞いていたみたいですね」 彼はお腹へ顔を近づけた。 「待っている。ゆっくりでいいから、元気に生まれてきてくれ」 *** パーティーの三日後、新居の応接室へ、榊原さんが一人で訪ねてきた。 左腕はまだ布で支えられている。 「今日は、映像ではなく、自分でお話ししたくて来ました」 私と朔弥さんの向かいへ座り、警察へ渡した撮影物や依頼の記録について説明した。 自分の手元には、こちらへ連絡する材料として使えるものを残していないという。 「私たちの通院も、寝室も、お仕事の材料だったんですね」 「はい」 榊原さんは逃げなかった。 「それは、許せません。お金が必要だったと言われても、私が眠れなかった夜は戻りません」 「わかっています」 右手
「続けてもいいか」 婚約披露パーティーの壇上で、朔弥さんが私へ尋ねた。 一条父娘と冴子が去った会場には、倒れた椅子や、澄麗が落とした髪飾りが残っている。 係員たちが片づけようとしていた。 私は夫の手を取った。 「続けたいです」 ここで控室へ戻れば、会場に最後に残るのは澄麗の絶叫になる。 それは嫌だった。 私は朔弥さんの隣に立ち、この場を、私たちを祝ってもらう席へ戻したかった。 朔弥さんが司会者へ頷く。 照明が戻り、止まっていた音楽が流れ始めた。 澄麗が座るはずだった椅子は下げられた。 壇上の中央には、私と朔弥さんだけが残る。 「改めて、ご報告します」 朔弥さんが私の手を持ち上げた。 「私は高瀬真尋さんへ求婚し、受けてもらいました。近く、結婚式を挙げます」 最初に立ち上がったのは、先ほど私へ頭を下げた役員だった。 「高瀬さん。祝いの席で申し上げることではないかもしれませんが、改めて謝罪させてください」 役員席から、私をまっすぐ見ている。 「再建案の数字を作り直し、離れかけた取引先をつなぎ、現場に残った社員をまとめた。御門がここまで戻れたのは、あなたの働きがあったからです」 別の役員も立ち上がった。 「それなのに、会社の都合であなたを担当から外しました。申し訳ありません」 「社長にも、この会社にも、あなたが必要です。復帰を待っています」 これまで何度も、家や会社の都合を理由に、仕事を辞めろと言われてきた。 妻だから。妊娠したから。一条家にとって邪魔だから。 私が続けたいかどうかを、聞かれたことはなかった。 その会社の人たちが今、私のしてきた仕事を見て、戻ってきてほしいと言ってくれている。 ようやくだ。 仕事も、夫の隣に立つ場所も、自分の人生を自分で決める権利も。 奪われ、手放すよう迫られたものが、ようやく全部、私の手に戻ってきた。 肩から力が抜けた。 嬉しいのに、目の前に並ぶ役員たちの顔が涙で滲んだ。 返事をしようとすると、声が少し震えた。 「ありがとうございます。出産後、必ず戻ります」 役員たちが頭を下げた。 社員の席から「おめでとうございます」と声が上がり、一人、また一人と立ち上がる。 拍手が会場を満たした。 父が笑っている。 眼
「御門への圧力を始めたのは、お父様です」 澄麗は、父親を見たまま話し始めた。 「朔弥さんが真尋さんを選ぶなら、一条との取引を止める。会社が困れば、最後には言うことを聞くとおっしゃったわ」 「黙りなさい」 「どうして? 私だけのせいなのでしょう?」 雅臣が壇上へ上がろうとする。 係員に止められると、今度は会場の責任者へ怒鳴った。 「この会を終わらせろ!」 誰も照明を落とさなかった。 マイクも切れない。 澄麗は笑っていた。 頬を涙が伝っているのに、拭おうともしない。 「役員の方へ話を通したのも、お父様。真尋さんのお父様の事務所へ圧力をかけたのも、お父様の指示よ。何かあっても、一条が処理すると言ったじゃない」 「私は、人を殺せとは言っていない!」 会場が静まった。 雅臣は、自分が何を否定したのか気づいたらしい。 開きかけた口を閉じた。 「殺すつもりだったと、知っていたんですね」 私が尋ねても、答えなかった。 澄麗の視線が、冴子へ移る。 「冴子さんも同じでしょう。離婚届を出せば終わる。子どもだけ御門へ迎えればいい。母親なんて、あとからどうにでもなるとおっしゃったわ」 「そんな言い方はしていません」 「嘘!」 澄麗の甲高い声が、会場を裂いた。 澄麗が初めて、敬語を捨てた。 「私こそ御門の嫁にふさわしいって言ったじゃない! 真尋さんは年を取りすぎている、仕事ばかりで妻の役目も果たせないって!」 「あなたが勝手に――」 「離婚届を盗んだのはあなたでしょう!」 二人の声が重なった。 さっきまで同じ席で笑っていた人たちが、互いを指さしている。 澄麗は乱れた髪を直さないまま、私を見た。 「あなたが全部悪いのよ!」 マイクを握った手が、白くなる。 尖った声と一緒に、指まで私へ突きつけられた。 「子どもの父親だって、本当に朔弥さんかわからないじゃない。城戸さんと何度も会って、あんな写真まで撮られて!」 城戸さんが席を立った。 「高瀬さんと、そうした関係になったことはありません」 澄麗は城戸さんを睨んだ。 「あなたも、その人が好きだったのでしょう!」 「だからこそ、本人が選んだ相手を傷つけることはしません」 城戸さんは、それ以上話さずに座った。 私はマイクを持った
「私だけの責任だとおっしゃるの?」 冴子は、椅子の背に置いていた手を離した。 婚約披露パーティーの壇上で、雅臣と向き合う。 「一条が資金を戻す。澄麗さんが真尋さんを納得させる。だから役員たちも動いたのでしょう」 「娘一人に任せた覚えはない。離婚届は、あなたが処理すると言ったはずだ」 会場のカメラが、一斉に冴子へ向いた。 冴子の肩がわずかに跳ねた。 並んだレンズを見回し、出口へ目を向ける。けれど通路には係員が立ち、報道関係者は一台もカメラを下ろさなかった。 冴子はいつもの微笑を作ろうとした。 上がったのは口角の片方だけだった。 「処理だなんて、人聞きの悪い」 「保管していた書類を提出したのは、母さんだ」 朔弥さんが割って入った。 「俺たちの意思を確かめずに持ち出した。離婚届を撮影させ、一条側へ渡したことも、扱った者が認めている」 「あなたたちが、いつまでもはっきりしないからでしょう!」 冴子の声が変わった。 「家を守るには、誰かが決めなくてはいけなかったのよ」 「だから俺の妻を外したのか」 答える代わりに、冴子は澄麗を見た。 「あなたが、真尋さんを自分から退かせると言ったのよ」 「私だけに押しつけないでください」 澄麗が、すぐに言い返した。 役員席へ腕を伸ばす。 「皆様だって、昨日までは私を朔弥さんの婚約者として迎えるとおっしゃっていたでしょう! 御門と一条の縁談しか会社を救う道はないと、そうおっしゃったわ!」 役員席から、一人が立ち上がった。 「その判断が誤りでした」 逃げずに澄麗を見てから、私へ向き直る。 「一条家との縁談を経営再建の条件として扱い、高瀬さんを担当から外す人事にも賛成しました。会社のためだと言いながら、一人の社員へ責任を押しつけた。申し訳ありません」 深く頭を下げた。 ほかの役員たちも立ち上がり、続いて頭を下げる。 澄麗は、並んだ役員の顔を端から見た。 一人ずつ名前を呼びそうに唇を動かす。けれど、誰も婚約者の席へ戻れとは言わなかった。 手の中でマイクが震え、甲高い音が会場へ走った。 「今さら、謝って終わりにするの?」 澄麗の声が高くなった。 「私だけを壇上へ上げて、都合が悪くなったら間違いだったと言うの? 冴子さんが、御門側はすべて押さえ
ダイニングルームに入った瞬間、足が止まった。 義母の冴子、その隣には祖母の千鶴、向かいには朔弥さん。そして、夜の席にいることがあまりに自然すぎる一条澄麗。 胸の奥で脈がひとつ大きく跳ねた。嫌な予感だけが、遅れてはっきり輪郭を持つ。 澄麗は淡いグレージュのセットアップに細いパールを合わせて、まるで最初からこの家の夜の食卓に馴染むために育ってきたみたいな顔をしている。 「こんばんは、真尋さん」 澄麗がやわらかく微笑んだ。 「ごめんなさい、勝手にお邪魔してしまって。御門家とは家族同然のお付き合いですので、つい昔の癖で入ってしまいましたの」 私は一拍遅れて会釈した。 もう
「真尋。今はやめろ」 掴まれた手首が痛い。 腹の奥が焼けて、呼吸が乱れた。 叫びたかった。この場で全部、ぶちまけたかった。 彼の顔を見た。 そこにあったのは、私への心配ではなく、場を乱された苛立ちだった。 胸の奥を、鈍いものが刺した。 そのとき、澄麗の声が届いた。 「ごめんなさい。私、何か失礼でしたか?」 澄麗は困ったように目を伏せる。 完璧だった。責めたほうが浅く見える形に、もう整っていた。 「……いいえ。お気遣い、ありがとうございます」 噛みしめた唇が切れ、舌の裏に鉄の味がした。 朔弥さんの手が離れる。 そこだけが、熱を持って痛んだ。
昔、午前二時の会議室で、朔弥さんが紙コップのコーヒーを私の手元に置いたことがある。 御門ホールディングスを再建させようと二人で必死だったころ。 私の一番好きなオートミルクラテだった。 「まだやるのか」 「数字が嘘をついているので」 彼は私の肩越しに資料を覗き込み、すぐ近くで小さく息をついた。 「そういうところだ。せめて休むときは休め」 低い声が近すぎて、あのころの私はそれだけで少し浮き足立った。 彼が私を気にかけてくれているのだと、本気で思った。 再建の底で、ああいうくだらないやりとりができる夜だけは、私たちはたぶん同じ側にいた。 なのに今は
朔也さんは一晩中帰ってこなかった。 私が送ったメッセージも、既読のまま返事はなかった。 翌日、会社の空気は昨日より少しだけ悪かった。 数字が悪いわけでも、会議が荒れているわけでもない。ただ、人の視線だけが妙に湿っている。そういう日の会社は面倒だ。問題が表に出る前に、誰かが勝手に物語を作っている。 エレベーターを降りた瞬間、すれ違った総務の二人が、私を見るでもなく声を落とした。 「やっぱり、社長とは昔からそういう感じだったんだ」 「二人、本当にお似合いだよね」 「でも今さら入るんだ。しかもブランド戦略って」 一条澄麗。 帰国した、若くて、家柄もよくて、米国の名門